検温のとき

記憶が、それも数年そこら前の記憶に自分がいない。こういうことがあった、こういうことを感じた、それだけが残り、今ここにある肉体が、精神がその延長上にあるとは身が持たない。そうであっても、たとえば過去の友人に会い、過去の時を反芻し、思い出したふりをしながらその時の感情ぐらいに身を寄せ、懐かしいような身の細る気持ちを感じたとしても、今ここにある身体にしかよるすべがない。ありがたいかもしれない、からだがあることにたすけられているかもしれない、しかし、いっときの感情を蘇らせることはできず、とかく、身体だけしか触れる確かなものがないとしたら、それは軽く、大変に重苦しいことであるけれども、体温がいつどこで測られても36でよかったなと安堵するほどの安心にはなる。

 

感情が人に触れた時にしか現れないことはない、外の空気はつめたくなり、風が吹き、今朝は近所に人を弔う人の群れがお辞儀を保っていた。その中を自転車で通り、風があり、溜まる空気があり、他人たちがいた。他人たちも他人の群れであり、みんな集まった人たちなのかしら。コンビニは、誰もが入れる場所だけど、いつもの時間に同じ人がいて、きっと終わりの時間を待っている、決まった時間と少しずれた後にトラックが止まる、止まることを責める公的な力はなかなか発生せず、時は毎日泊まり、数時間を過ぎて、朝が来る。みなの眠りの総数は、誰かが変わるには十分な時間のかたまりではあるが、変わりない日々が続く。