2022/07/13 ラバーの支え

アロエのヨーグルト買ったら20年分の走馬灯走り出す こんな個人的でしかないことを書き走ったのはしばらくの「私だけの部屋」の時間があり、それは、白くよく見れば角という角や天井に黒ずみのある部屋の天井の四角の部分を見つめて青向きのここの腹と天井の高さでできるその空気でもってその距離を測るような大きく見れば瞬間でしかないひとときがある時のこと。そういう時と、知らない街中を徘徊して注意深く観察をしながらの動きのつもりがほうぼうの建物やその土地が持つ強い空気や熱度に飲み込まれた時のからだのどこにもなさとその足がどうしようも説明がなく地面についている時のとおさが生じたときに起きたりしてきたような気がする。と言いつつも、たいていの場合はこの状況を意図的につくりだしたわけではないことが多いので、そのこともなんらか、かんじかたや感触に関わっている気もしなくもない。

 

他人といるときに、ふと浮かんだ疑問や気づきや感動を、時差なくその人に伝えるかのように、パソコンに、ノートに、そのことを吐き出し、そのあとの思考や感情を連ねる。と、下書きに書いてあったのだがそういうふうにできる時とできない時はあり、というかこんなに直接的に言ってしまうことの恥ずかしさがすごいしいつ書いたんというかんじだが、ではそれはどういう時に寄っているものなのかしらん? とチラッと思ってみるけれどもそれ以降ふかいところにはあまり行かず、そうであれちらちらとたびたび浮かび上がってくるので日常のさまざまな小さいことの積み重ねの中でも少しは重みのあることなのではと思いつつも思考の癖という「しんだん」テストを受けてなんらか指図される時の自意識のなさくらいの距離感がある。

 

本日はなんといってもすごい湿度でして、曇りの日はビール、しかも薄い黄色のビール、と言って安居酒屋に集うのが吉、みたいな気分は過去の習慣でまじない的なものではあるがレモンとか、ナンプラーとか、パクチーとかそういうこれがわたくしのにいですっと居るような方々にも鼻筋通される。そういえば、人とたくさん会う日々を送っていないことが、たくさん会った週を疲れさせるのか? というナゾが降ってきて、そしたら情報にアテられるということになった時には逆に話しまくるのがよいのでは? なんて思ったりしたこととと相反してしまって、ちょっと夜道ボソボソ一人で話してるような中途半端に陥ったということがあった。

あと、読んだことのある小説の翻訳者による小説冒頭の朗読(知らなかったが伴奏付き)ということがあった。しばらく前に読んでいたのでああ冒頭だな、くらいの記憶しかなかったけれども、すぐ眠れることを20年以上得意としてきた身体が起きながら目をつむり音に集中することを同時にやってみたこともあり、なんか語、が、上から落ちていく、のような感覚があった。多分あれよりももっと長かったら寝てしまったかもしれないけれど、初のこととしておさめてみる。

 

 

クラリッセ・リスペクトル『星の時』 

訳・福嶋伸洋