2022/12/22

あるひとつの、しぜんな、空間の中に一人ひしめくことにまぎれもなく幸福を感じると書いて、いま、この瞬間に幸にも福にも完全に嫌悪感を抱くが、今こうやってさらさらと文字に流していくにはあまりにも言葉を持っていない、言葉を持っていなくてその場にいることがまったく消化できずに消えてしまいたくなることなんて、もう10年代に置いてきたと明るく言えるけれど、さいきん人にも言えるようになったけれど、こうやって文字だけに見合っていたらそのことが感覚されたことをなんとなく私が特別に思っているようなふうに伝わっていなかったかな? という方面で、うつむきたくなる、とにかく、たとえばいろいろに明るい色をしたスライムが入ったビニールのやわらかいやつがぶつかり合うけど割れないときみたいな力量のバランスで絶対に止まっていたいという望みがある。それを超えて、ウィヤッ切れ込みが入ってそのビニールが死んだり、色が濁ったりするような時が、刃物が、飛んできた時を毛嫌いする顔は見せてしまっていることは、肯定的に出していたし、それはよく考えた上での行動だったけれど、最近は、今年はちょっとそれは変わって、刃物へし折ってさえも分からせて抱擁。それもすごい痛いやつ、ならばあり得るんじゃないかなんて、ちょっと平和なエリアで思っていたんだけど、昨日はそれもありえないすぐさま場を後にしたいこと、久々にあり、そりゃそうだわなとも思いつつ、占いは言う周りを気にするなと。占い、どういうきもちで彼らが、不特定多数の人間たちのことを12とかに分け、励まし、リコメンドを重ねているのかを知りたくて、占星術を齧ってみたら、励ましの前提から始まり、ちょっと違ったとなり、もっと別のものを探している。12/22。朝が寒く、午前中は雨。午後から晴れマークと表示されており、もう寒いので洗濯物は昼からではナシだけど、午前中のくらくつめたい降りようからは晴れが見えなくて気になっていたけれど、晴れて、晴れの光の中で、濡れたアスファルトが見えた。それはきれいだったので、今ここに書いてる。今日は休みで、夢からたくさん見る空白の文字が生活に漏れ出していてしんどさがあって、手書きも挟みながら今書いているけれど、頭にわいていた具体的な、浮き沈みの言葉、ここにあまりない。

 

 

うつくしいと思ったことをただうつくしいと思い、放つことに抵抗があることはぜんぜんある。そのことについてうつくしさとは別の言葉でそれについて伝えないと完全にいけないようなことではぜったいにない、そう思ったことはなんの順序にもつかない、ただそれの表し方にいろいろな見方を付けられることによって見つめられる感情の揺らぎだけ放っておけばどうでっしゃろというかんじ、こんな言葉はわたしは言わない魔女の目をした80歳が言ってた、そうだと思うことを採用していくときの張り詰めた糸、なんて遠い言葉じゃなく、身体の内側のやわらかくみずみずしい耳たぶをぶち刺し感じる痛み、時間と共に固まる肉片。

 

 

内側の波音がうるさく揺れてしまう時には、だれか親切な言葉をくださいという感情がまあある。あなたに、という指標もまあある。でもまあ空いてるなら・・という距離は、他人への気遣いではなくて別の、軽さの? バロメータにしてもいいんじゃない。どうかな?

 

 

またも来年は。来年は、来年は、らいねんは。