2022/07/28 けぜ

素早く流れ去っていく景色の逆方向へ流れる移動にある時の居方というか状態は、明るい諦めというか、前向きな切り捨てというか、よくもわるくも起きていることごとを胸のうちに留めつつふかぎゃくな風撃ちの実際の方が強いというか、肌色にクリアーな白という面持ちになるのがいい。ような気がする。少し変わったなと思うのは、かつての移動の時はもっともって行かれている状態の方が多くて、覚えきれないことを諦めきれずに印象をむりに残そうとするかんじだったのが、今は調べ物ができるし、寝ようとして眠れる。この差はなんらかのリミッターが振れたのか、興味の範疇が変わったのか、理由はよくわからない。風のように居、吸い込み吐き出し流れてとおくへ、の方向がすこし見える。

 

身体が慣れた道や経路をよく眺めていても全然違う理由でなんかからだとそれらの位置が違うようになる時があるが、それはそもそも慣れた気でいただけの錯覚の錯覚なのか、景色そもそもの変化の総数がちょっとずつ変わっていく節目に差し掛かっているのか、と書いてうーんどっちもありな気がしてきた。やっぱり電車よりも窓と外が近く高さのあるバスが好ましいなと思う。昔は都電が神保町とか通っててさ、というのを最近聞いてそういえば知っていた気がしたけど、その時に都電から見えていた景色のことを聞いて乗ったことはないけどもう忘れない気がした。郵便で物が届くことにちいさい心踊りをまだ持っている。京都の真っ直ぐな商店街を歩いていると定期の小道から風が抜けてきて、それが今の内側を熱するような温波ではなく夏の夜の散歩のあれだったことに対してひとりくちもとでわらえてよかった。